ほめ子自重しろ

ホメオパシー、学術会議が否定=「根拠なく荒唐無稽」と談話
8月24日19時42分配信 時事通信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100824-00000121-jij-soci
季刊ブログの久々の更新になる。
声明が出たことはGJ。相手にする価値がなさそうな荒唐無稽なものであっても、公式にきっちり否定してやることが大事。他にも波動だの何たら還元水だの酵素だのミネラルだのと怪しげな商売はたくさんあるけれど、きっちり追求が進めばよい。…当たり前だけど、血液型判断も根拠レス(正確には、性格や行動などに差が無いことが証明されている)なのをお忘れなく。

ちなみに二重盲検法を用いて効果が検証されていないものは、ほとんどが無効であると思う。これについては朝日新聞の記者のブログサイト、ホメオパシーを巡る問題(その1) 「ホメオパシー療法、信じる前に疑いを」
https://aspara.asahi.com/blog/kochiraapital/entry/kNKQFuNbTK
の説明が分かりやすいので、以下に引用。
以下引用-----

あえて言います。あなたが自身の経験で「効いた」というのは、客観的な根拠には全くなりません。実は、放っておいても治ったかもしれない。ホメオパシー以外で受けている通常治療のおかげかもしれません。

実際に「効く」かどうかを確認するには、検証が必要です。

効果の検証は、医学の世界ではダブルブラインドテスト二重盲検試験)という手法が、最上の手法とされています。「医学の世界」というと難しげですが、特に難しい理屈ではありません。

テストの原理は、患者さんに本当の薬と偽の薬を使ってもらい、効果を比較するものです。このとき、患者さんが「偽の薬だからどうせ効かない」とか「本当の薬だから効くだろう」と思うと、「病は気から」の原理で効くものも効かず、効かないものも効く、ことが起こりえます。

これを避けるために、患者さんには使う薬が本当の薬か偽薬かは言いません。さらに、お医者さんが「この人は薬を使っているから良くなるはず」と思っていると、実際よりも病気が良くなって見えるかもしれないので、お医者さんも、誰が偽薬を使っているか知らずに、テストを行います。患者さん、お医者さん双方が「本物か偽物か」を知らないので、ダブルブラインドというわけです。

良くできた検証法でしょ?

          • 引用ここまで

さて、こういうインチキ医療がはびこる問題の根底には科学的リテラシーのなさや病に対する不安などはもちろんとして、ブログ{助産院は安全?」のエントリ
http://d.hatena.ne.jp/jyosanin/20100811/1281533183
で指摘されているような、“あなたとは違うんです”的な優越感もあるのだろう。この手のものの信者が、いわゆる陰謀論を容易に信じてしまっているように見えるのも興味深い。もちろん騙して商売する側が万倍も悪いのだが、「自分の信じたいものを信じる」という状態に陥っていないか、冷静に自らの行動を判断することは忘れてほしくないものだ。

「拒否」の理由

ちょっと久しぶりの感がある、この手の報道だが。…ってか、エントリ上げるの自体が「ちょっと久しぶり」なんてレベルじゃねーぞ。それはさておき。
<救急搬送>7病院で受け入れ拒否、三重県の78歳女性死亡
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100403-00000044-mai-soci


「拒否」という表現は止めろという話は置いておいて断る理由をまとめると、以下の3つに大別されると思う。

1.受け入れ側の絶対的なマンパワー、キャパ不足。
→誰も手が空いていなければ、搬送されてきてもしばらくお待ち頂くことになる。いわゆる「ベッドが足りない」もこれで、よしんば廊下に寝かせたところで治療のための人手が足りない場合がほとんど。

2.誰も手が空いていないわけではないが、専門家の処置を受けられるまで(呼び出しや手が空くまで)時間がかかる
→割と多いケースだろうか。本質的には上と同じ、キャパ不足の話。「専門外でもとりあえず診ろ、人の命を何だと思っているんだ!」的なご意見の方へ。専門外、あるいは不十分な体制でもよかれと思って受け入れた場合、結果が悪ければ訴えられる。訴えられないとしても、専門外を受け入れて結果的に不十分な治療となる恐れがあるなら、受け入れる方が無責任というものだ。…実は十分な体制だったとしても、結果が悪ければ訴えられたりするのだけれど。
なお、呼び出し回数が頻回な場合は専門家が過労死する恐れもあるので、いくらでも応じるわけにはいかないことに注意。

3.専門家もいて体制的に十分受け入れられるけど面倒、あるいは訴訟リスクが嫌。
→稀な例外的事例としてはあるのかも知れないが。上記のキャパ不足と関連して、専門医はいるが過重労働でヘロヘロとなっている場合もあるかも。少なくとも急を要する、あるいは致命的となる可能性がある場合なら、普通の医療機関ならこの理由で断るのは少ないと思う。

まあ3.は拒否と呼べそうだが、1,2は受け入れ困難、あるいうは不能とするのが妥当だろう。他の疑問についても、例えば救急受け入れ問題FAQなどが答えてくれると思う。



医師不足(あるいは過重労働の常態化)は今に始まったことではないのだが、以前はそれなりにうまく回っていたのだろうと思う。敢えて劣悪な労働条件の中で働く医師は、それなりの意志・気概を持っている人間しか残らないというフィルターも働いていたのかも。でも「患者様」的な意識の増大や訴訟リスクの増加、それに伴うインフォームドコンセントなど業務の増加などにより、相対的なマンパワー不足も顕在化してきたのだろう。患者側の理不尽な言動によるモチベーション低下ももちろんある。

民主党政権下で医師数は増加させる方向に転じている。しかし医者を増やしても訴訟リスクが減らないなら、上記の1は減ったとしても3が増加するだけなんじゃないだろうか。産科をはじめとする訴訟リスクの高い科は避けられるだろうから、2も増加するだろうし。


理不尽な言動、訴訟リスクを減らすためには国民の意識が変わることが一番よいのだろうが、それは事実上困難。また、精神面でのサポートがあったとしても、医学的に「最善を尽くしたが仕方なかった」ような事例でも訴訟を止めさせるのは困難だろう。
医師数増加も必要だろうが、医療者が必要以上の訴訟リスクに晒されないための法的枠組みこそ必要という話だろうと思う。別に救急に限った話でもないしね。

今年のボジョレーは

今年のボジョレーは「過去50年でも素晴らしい出来」だそうだ。
ちなみにhttp://news.ameba.jp/domestic/2009/11/50326.htmlhttp://d.hatena.ne.jp/takerunba/20091120/p2でも取り上げられているが、参考にさせて頂きつつちょっと調べた限り、2001年からの出来は以下の通りらしい。
2001年 「ここ10年で最高」
2002年 「過去10年で最高と言われた01年を上回る出来栄え」「1995年以来の出来」
2003年 「ここ100年間でも屈指の出来」「100年に1度の出来」「近年にない良い出来」
2004年 「香りが強く中々の出来栄え」
      「2004年のボジョレー・ヌーボーは大当たりの年でした。ただし、
      フランスでの収穫量は、平年の半分ほどだったようです。
      2003年ほどではありませんでしたが、2004年も大当たりの年でした」
2005年 「ここ100年間でも屈指の出来」「ここ数年で最高」
2006年 「この2006年の作柄は、なんとあの数百年に一度の2003年に並ぶ
      【非常に良い】との評価が今や巷を駆け巡り、
      さらには、その複雑味は2003年をも凌ぐ!!、とも言われる
      素晴らしいヌーヴォーと出会える可能性が大」
      「昨年同様良い出来栄え」
2007年 「ここ数年のトップ5に入る素晴らしいもの」「柔らかく果実味が豊かで上質な味わい」
2008年 「今年のは昨年よりも 素晴らしい品質のヌーヴォーが見込めそうです」「豊かな果実味と程よい酸味が調和した味」


…100年単位の名作がゴロゴロしているようだが、「過去50年でも素晴らしい出来」という2009年はどうも見劣りしてしまう印象がある。しかし、どれも評価が高いことは分かるが何だかピンとこないので、分かる範囲内で順位をつけてみたいと思う。なおそれ以前の評価を参考として以下に書いておくが、これらまで順位をつけるのは面倒なのでやらない。
1995年「ここ数年で一番出来が良い」
1996年「10年に1度の逸品」
1997年「1976年以来の品質」
1998年「10年に1度の当たり年」
1999年「品質は昨年より良い」
2000年「出来は上々で申し分の無い仕上がり」


2001年から順に考えていくとまず分かるのは、2001年<2002年。また2004年は「2003年ほどではありませんでした」とあるので、2004年<2003年というのは確実だということ。
そして2005年は「ここ数年で最高」だという。「数年」ってそもそも何年ぐらいなんだ。普通に考えて、9年以下であるだろうことは分かるが。…とググってみると、「教えて!goo」に同じような質問があった。
リンク先によると数年とは「2、3か5、6ぐらいの年数」だそうで。4の立場がなく不憫ではあるが、自分の感覚とも近く頷けるものがあり、一般的な解釈としてよいだろう。要するに、「数年」は一般的に2,3年からせいぜい6年以内ってことである。従って、2003年<2005年ということもわかる。
以上から2001年<2002年、2004年<2003年<2005年という関係が成り立ちそう。

そして、2006年の評価を読むと、2003年は「あの数百年に一度の2003年」だそうで、非常に評価が高いことが分かる。しかし上述のとおり、2005年はその2003年をも上回っているのだ。ところが同時に2006年は「昨年同様良い出来栄え」とあるので、2005年=2006年ということもまた言えそう。「数百年に一度」を凌ぐのがゴロゴロしてるなんてどれだけ凄いんだ。ドラゴンボール末期を思わせる、強さのインフレ状態。
ここまでで推測すると、2001年<2002年で、また2004年<2005年<2003年≦2005年=2006年ということになる。

さて2007年であるが、2007年<2008年ということは分かるのだが、この年はなかなか評価が難しい。「ここ数年のトップ5」とあるけれど、「数年」ってのは上述の通り「2、3か5、6ぐらいの年数」である。
ここで評価の話に戻るが、数年を2,3年と解釈していれば「トップ5」という言葉は出てこないと思うので、必然的に5,6年ということになる。…5,6年のうちでトップ5?2002年から2007年の6年間か、2003年から2007年の5年間のうちトップ5ということになる。
だが「5,6年中のトップ5」という表現は、かなり不自然で無理がある。「トップ3」という表現はよく用いられるが、その表現を使わないところをみると少なくともトップ3内にはいないと推測できそう。また、「数年」を多めの6年と解釈しても、2002年の評価は低くないのだ。近年はどうも猛者ぞろいのようであり、それらより優れているのであればそう書けば宣伝文句になるのに敢えて書かないのは何故か?…5年中5位としても、「トップ5」は嘘にはならない。実は婉曲に「2007年はここ5年で最悪ですよ」と言っているのではなかろうか。

とすれば、「今年のは昨年よりも 素晴らしい品質のヌーヴォーが見込めそうです」という謳い文句の2008年の品質も知れたものであろう。というわけで、
2007年<2008年<(越えられない壁)<その他 という関係はほぼ確実といえそう。
2001年・2002年とその他との関係が知りたいところではあるが、どうも調べた限りの条件では判断が難しい。ただ少なくとも2003年や2005,2006年ほどではなさそうである。1997年は「1976年以来の品質」で2001年は「ここ10年で最高」らしいので、1976年<2001年<2002年と言えるようだ。

ここで、調べているとさらにとんでもない記述を見つけた。
ボジョレーヌーヴォー解禁、新旬ワインと食の響宴によると2009年は「過去60年間で素晴らしいヴィンテージと言われている1947年、1949年、1976年、2003年、2005年に並ぶとともに、それらを超えるヴィンテージとして記録されるでしょう」とのこと。…あれ、2005年と並んで最強のはずだった2006年は?また、1976年より優れているとされる2001年、2002年は??明らかにムジュンしています!畜生、誰かが嘘をついているんだ。
ともあれ2009年は「並ぶとともに、それらを超える」だそうで、2005年<2009年ということらしい。「過去50年でも素晴らしい出来」風情のくせに、「あの数百年に一度」の2003年さんやそれを凌ぐ2005,2006年さんより優れているというのだ。

ともあれ、どうやら年を追うごとに品質が上がっていると考えざるを得ないボジョレー・ヌーボー。来年はどうなのだろうか?オラ、ワクワクしてきたぞ!

結構なことだが

何と、半年以上ぶりにエントリを上げる。
「朝ズバッ」に重大な違反=割りばし事故報道で−BPO勧告
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091030-00000322-jij-soci

…奇しくも、前回のエントリも割りばし訴訟の件についてであった。

この件が「不正確で不公平な報道」なのはよく分かる。
しかし医療に関しては似たような報道が山ほどあるというのに、BPOの勧告があったなんて話はめったに聞かない。してくれるのは大いに結構なんだけれど、もっと他にも勧告してくれてもいいんじゃないの?と思う。…とはいえそれだとTBSのみならず「日本のマスコミの標準レベル」がほとんど勧告対象になりそうな気がするんだけれど。

理不尽なもの

割りばし事故死、2審も両親の賠償請求を認めず
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090415-00000624-yom-soci

今を生きる僕らには、いずれ年老いて死んでいくことだって理不尽に思えたりする。やはり死はできれば避けて通りたい理不尽な存在で、それに面した時にはコントロールし難い負の感情が生まれたりもするのだ。「愛する我が子の突然の死」なんて場合にはなおさら。病気だって然り。
問題は、その負のエネルギーがどこに向かうかということ。そういうものを扱う医療には、どうしたって負の感情が転嫁されやすい。また現状では幸か不幸か、今回のように訴訟にうって出るという手段が存在している。

今回の判決は妥当だと思うが、以前のエントリでも書いたように、「妥当な判決」が出るまで、事故から実に10年(当然、この件の当事者となった医師の人生はボロボロであろう)。その間には、軽微に見える外傷でもCTを撮ろうという”教訓”も確かに広まった。しかし被爆のリスク・医療費など考えるとデメリットも多そうであるし、何より救急現場の萎縮がこの件を機に猛烈な勢いで進んだと感じる。
「イイカゲンな診療が淘汰された」などという呑気な話ではない。むしろリスクに敏感な「まとも」な医師を萎縮に陥らせた意味合いが大きく、弊害のほうが極めて大である。

また”「妥当な判決」で医療は救えない”わけであるし、現在の訴訟の枠組みではなく純粋に医学的見地から公平に事例を検討する仕組みが望まれるところである。しかしここで真相究明に処罰を絡めると、往々にして罰や処分への恐れが隠蔽を生み、結果としてミスなどの再発防止を阻害する(本件がミスだと言っているわけでないので悪しからず)。
「処罰・処分しないことを前提とした事故調査委員会」を求めたいところだけれど、現在検討されている事故調査委員会も処罰などを前提としたもの。以前のエントリでも書いたが、航空管制官事故調査委員会の調査結果をもとに有罪とされた。だが、ちょっと前に管制官のなり手不足が報じられたのは記憶に新しいところだ。当然、上記の件と無関係ではあるまい。

訴訟を禁止すべきだとまでは言わないが、現在の訴訟の枠組みではなく、ある程度論理的・抑制的にはたらく仕組みというものが、患者側、医療側の双方にとって必要ではなかろうか。

踊る阿呆に煽る阿呆

久しぶりのエントリ。今日はニュースからこの話題。
<川崎の医師>講演会で「どんどん吸って早く死んで」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090312-00000010-mai-soci

さて、喫煙する人間のほうが結局医療費が安上がりになるという話は、こんなシミュレーションがあったりして。抜粋すると
CONCLUSIONS: If people stopped smoking, there would be a savings in health care costs, but only in the short term. Eventually, smoking cessation would lead to increased health care costs.
訳:もし人々が禁煙すれば医療費は減少するが、一時的なものにすぎない。結局、禁煙は医療費を増大させるのだ。

だそうな。

確かに医師は職業柄、自ら自分の健康や生命を粗末に扱う人間に対して冷ややかなのは事実である。が、発言の意図が本当に「どんどんタバコを吸え」という意味でないのは、常識的に考えれば明らかだと思うんだが。ましてこの発言の主は喫煙者だということで、普通に考えて自虐ネタ。
あと記事によると「講演会は富山県医師会主催で参加は関係者約30人」。おそらく聴衆は医療関係者ばっかりだろうから、TPOをわきまえない発言とも思えないし。さすがに、肺癌患者に面と向かって言っちゃマズいけどさ。
それにしても裏の意図を酌まずこの程度の皮肉に噛み付いてしまうあたり、この団体も底が浅いというか。もちろん、こんなのニュースにしちゃうマスコミのほうはさらに救いようがないけれど。

応用問題

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090202-00000016-yom-soci
…いつも思うのだが、Yahoo!ニュースからのブログリンクは業者だかアクセス稼ぎっぽいのばっかり。自動リンクではないようだし、チェックする人間の目が節穴なのか。それはさておきこのニュース。亡くなられた方のご冥福をお祈り致します。

救助中に200m滑落、遭難男性死亡…北海道・積丹
2月2日11時36分配信 読売新聞
読売新聞
 北海道積丹町(しゃこたんちょう)の積丹岳(1255メートル)でスノーボード中に遭難した札幌市豊平区の会社員藤原隆一さん(38)を1日正午頃、道警の山岳救助隊が発見。
 藤原さんの意識がもうろうとしていたため、5人の隊員が交代で抱きかかえて下山していたところ、藤原さんと3人の隊員が雪庇(せっぴ)を踏み抜き、約200メートル下に滑落した。
 3人の隊員は自力ではい上がったが、藤原さんが自力で歩けなかったため、残りの隊員が藤原さんを救助用のソリに乗せて急斜面を約50メートル引き上げた。ところが、隊員交代のため、ソリを近くの樹木に縛って固定したところ、樹木が折れてソリが滑り落ち、藤原さんは再び行方不明となった。
 当時は降雪で視界が悪く、救助隊は捜索を中断。2日朝から捜索を再開し、午前7時40分、標高約1000メートル付近の斜面でソリに乗った状態の藤原さんを発見、札幌市内の病院に搬送したが、死亡が確認された。
 道警の発表では、藤原さんは仲間2人と先月31日に積丹岳に入り、頂上付近からスノーボードをしていたがはぐれたため、無線機で頂上付近にビバークすると連絡していた。救助隊は1日朝から捜索し、同日正午頃、頂上付近の尾根筋に倒れている藤原さんを発見した。
 救助中に滑落事故が起きたことについて道警は「限られた人数の中で、やむを得ない判断だった」としている。
最終更新:2月2日11時36分

とりあえず、うろうろドクターさんのところにTB。
コメント欄がちょっと面白い展開なのだけれど、「限られた人員・装備で、冬山の厳しい状況下で力を尽くした救助隊員」と「限られた人員・設備で、さまざまな状態の患者を治療する医師」ってのは、基本的に相似形。自然環境も病気・怪我も当たり前の話、人間が思うようにできる保障なんてどこにもないのだ。「救助隊員が来たから大丈夫」ってのと「医者にかかってるから大丈夫」なんてのも、もちろん同じなわけで。
どうも医療がらみになると以前からのマスコミの情報操作もあってか、そのあたりが理解されないようだけれど。