理不尽なもの

割りばし事故死、2審も両親の賠償請求を認めず
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090415-00000624-yom-soci

今を生きる僕らには、いずれ年老いて死んでいくことだって理不尽に思えたりする。やはり死はできれば避けて通りたい理不尽な存在で、それに面した時にはコントロールし難い負の感情が生まれたりもするのだ。「愛する我が子の突然の死」なんて場合にはなおさら。病気だって然り。
問題は、その負のエネルギーがどこに向かうかということ。そういうものを扱う医療には、どうしたって負の感情が転嫁されやすい。また現状では幸か不幸か、今回のように訴訟にうって出るという手段が存在している。

今回の判決は妥当だと思うが、以前のエントリでも書いたように、「妥当な判決」が出るまで、事故から実に10年(当然、この件の当事者となった医師の人生はボロボロであろう)。その間には、軽微に見える外傷でもCTを撮ろうという”教訓”も確かに広まった。しかし被爆のリスク・医療費など考えるとデメリットも多そうであるし、何より救急現場の萎縮がこの件を機に猛烈な勢いで進んだと感じる。
「イイカゲンな診療が淘汰された」などという呑気な話ではない。むしろリスクに敏感な「まとも」な医師を萎縮に陥らせた意味合いが大きく、弊害のほうが極めて大である。

また”「妥当な判決」で医療は救えない”わけであるし、現在の訴訟の枠組みではなく純粋に医学的見地から公平に事例を検討する仕組みが望まれるところである。しかしここで真相究明に処罰を絡めると、往々にして罰や処分への恐れが隠蔽を生み、結果としてミスなどの再発防止を阻害する(本件がミスだと言っているわけでないので悪しからず)。
「処罰・処分しないことを前提とした事故調査委員会」を求めたいところだけれど、現在検討されている事故調査委員会も処罰などを前提としたもの。以前のエントリでも書いたが、航空管制官事故調査委員会の調査結果をもとに有罪とされた。だが、ちょっと前に管制官のなり手不足が報じられたのは記憶に新しいところだ。当然、上記の件と無関係ではあるまい。

訴訟を禁止すべきだとまでは言わないが、現在の訴訟の枠組みではなく、ある程度論理的・抑制的にはたらく仕組みというものが、患者側、医療側の双方にとって必要ではなかろうか。