効果的ということ

Yosyan先生のところのNHKの「たらい回し」報道姿勢、それに引き続くネットの礼の各エントリのコメント欄を興味深くみていた。

マスゴミ"といった言葉の是非はともかくとしても、単なるガス抜きに終わらず相手(多数のROMを含む)に理解・共感してもらうためには、表現内容や方法には細心の注意を払うべきと思う。個人的にはひろさんの

いってることが間違ってなくとももうちょっと品のある表現をできないものだろうか、と思う書き込みがふえたとは最近私も思います。なまじ内容には同意するだけに、冷静な人から見るとこの文体はイタイ感じに見えるだろうと思うとつらいです。最近は普通のブログでちょっと救急批判をしてるといきなり長文のコピーをはりつけ「お前みたいなのが間接的に人を殺すのだ」と唐突に書き込んだりするのも殖えてるし…。
まあ私もえらそうなことをいえる立場じゃないですが、わざわざ論座やら現代思想やらに取り上げられるネタを自分から提供することもないのではと思うこともあるのですがどうでしょう。

とか、暴利医さんの

○○という言葉は駄目、△△ならOK、などという言葉狩りをし始めるとヒステリックなマスコミと同じレベルになってしまうので、「原則として礼を尽くす、具体的な表現は各人の良識に委ねる」、ということでよいのではないでしょうか。
「暴言や極言を使っての表現を行なわなくとも、もっと強烈な批判を行なうのは難しい事ではありません」というYosyan さまの言葉の通りだと私は思います。自分ではその気がなくとも、ネット上で言葉がきつ過ぎると相手と同じレベルのガス抜きをやっているように見えて、多くの目に触れる場でこれは決して得策ではないでしょう(それが正しいか正しくないか、ではなく、effectiveかどうか、です)。

あたりの発言に激しく同意。
多数のROMの共感を得るという「最大限の効果」を生むためには、発言にあたりいくら気を使っても使いすぎということはないんじゃないか。まして「不適切」な書き込みがマスコミに取り上げられ、言葉だけが独り歩きしてはては訴えられたりしかねないというのに。
品格・品位どうこうというより、ある意味では狡猾さが求められるというか。もちろん各コメンテーターやブロガーによってスタンスも違うし辛辣な批判もあってよいのだが、個人的には反感を買わないこと、揚げ足を取られないことが重要と考えている。