「ずっとウソだった」に思うこと

ちょっと前の話になるが、斉藤和義によるセルフカバー、「ずっとウソだった」が話題になっている。こんな僻地のブログを見に来ることができる情報強者ならもちろん知っているのだろうと思うが、一応以下に歌詞を引用。

『ずっとウソだった』
この国を歩けば、原発が54基
教科書もCMも言ってたよ、安全です。

俺たちを騙して、言い訳は「想定外」
懐かしいあの空、くすぐったい黒い雨。

ずっとウソだったんだぜ
やっぱ、ばれてしまったな
ホント、ウソだったんだぜ
原子力は安全です。

ずっとウソだったんだぜ
ほうれん草食いてえな
ホント、ウソだったんだぜ
気づいてたろ、この事態。

風に舞う放射能はもう止められない

何人が被曝すれば気がついてくれるの?
この国の政府。

この街を離れて、うまい水見つけたかい?

教えてよ!
やっぱいいや…

もうどこも逃げ場はない。

ずっとクソだったんだぜ
東電も、北電も、中電も、九電も
もう夢ばかり見てないけど、

ずっと、クソだったんだぜ

それでも続ける気だ

ホント、クソだったんだぜ

何かがしたいこの気持ち

ずっと、ウソだったんだぜ

ホント、クソだったんだぜ

東電に言わせれば今回は「想定外」の震災に見舞われたということなのだろうが、東北地方はたびたび津波に見舞われてきていたし(法華狼の日記:東電の津波や地震の想定についてメモ)、地震により電源が失われ冷却システムが動かなくなると、炉心溶融、水素爆発、水蒸気爆発の危険性があることも指摘されていた(天漢日乗:福島第一第二原発事故を予見していた共産党吉井英勝衆院議員(京大工学部原子核工学科卒)の2005-07の国会質問(その3)地震で電源が破壊され冷却システムが機能停止する危険を2006年に指摘するも、政府は「大丈夫」の一点張り マスコミも大スポンサー電力会社に「配慮」して今回起きた危険が指摘されていたのを総スルー)。まるで現在起こっていることそのものである。個人的には福島第一原発の件は、人災としての側面が少なくないと思っている。

電力会社や政府が積極的にウソをついていたかはともかく、被災地以外の電力会社のサイトをあたってみても万一の事故の可能性、具体的なリスクなどについての記述は見つけられない。まあそれを言い出せば電車や飛行機やら自動車だって事故の際にどうなるかなんて説明は普通はないのだが、事故の可能性、起こった場合のリスクなどをどの程度判断可能かと言う点において、原発と他には大きな隔たりがあると考える。原子力は専門性が高く一般人にはなかなか判断が困難で、言い方を変えれば「情報の非対称性」が起こりやすそうということである。

同じように「情報の非対称性」が起こりやすそうな分野として、例えば医療が挙げられるだろう。考えられる治療方針やそのリスクについて、説明を受けなくても想像できるという患者はほとんどいない。だからこそ治療にあたっては、十分に説明し同意を得るいわゆるインフォームドコンセントがほぼ必須のものとなっている。例えばいまどき「手術の成功率は100%」とだけ説明して、合併症やミスなどのリスク、他の治療法の可能性を知らせずに手術してしまうような医療機関はまずないと思うが、電力会社がやってきたのはそういうことだろう。事故の可能性やリスクを知らなければ代替手段を考慮さえしないかも知れないのだから、一般人的には予め原子力以外の可能性を考えるインセンティブを奪われていたとも言える。真実を“述べない”ことは「ウソ」とは言えないかも知れないが、受け止める側としてはウソと感じるのは無理もない。「ずっとウソだったんだぜ」という叫びも無理からぬものだと思える。

一方でこの歌に対する批判も、例えば以下のようにあちこちで見られる。
てんかん(癲癇)と生きる:ずっとクソだったのは私たちか
Chromeplated Rat:誰に向けて、なにを、誰が
「騙された」とか歌って喜んでる斉藤和義と信者はこれ読めよマジで

確かに直接的に歌われているのは、推進側が「ウソだった」「クソだった」という点のみであり、被害者目線でしか語られていないように見える。問題提起としては不十分だという指摘も当たっているかも知れない。だが本人がどんな思いでこの歌を歌ったかは想像するしかないが、以前から斉藤和義は反原発ソングを発表したりもしている。絵文録ことのは:キヨシロー「Love me tender」のアンサーソングとしての斉藤和義「ずっとウソだった」の無力感でも言及されているように、電力会社や政府に対する怒りだけではなく結果的に現状の事態を招くに至った自らへの怒り・無力感や、既に起こってしまったことに対する無力感、閉塞感を表現したものではないだろうか。今さら誰かを悪者にしたところで汚染をなかったことにできるわけではない歯痒さは、本人も痛感していたはずだ。原子力は安全ではないのかもしれないと思いながら結局何もせずにいた自分は、とても後ろめたい思いでこの歌を聴いた。

メッセージを発信する側としては、主張を尖鋭化させれば受け入れてくれる人が減り、鈍化させ過ぎれば効果が少なくなってしまいバランスが難しい面もあるのだと思う。この歌詞が専門家によるものだとすれば批判されるべきかも知れないが、いちアーティストの作品としては十分よくやってくれていると言えるのではないだろうか?これぐらいのメッセージでさえ表明できないアーティストの方が、圧倒的に多数なのだから。少なくとも、多くの人に原子力政策の欺瞞を意識させた功績はあると言えそうだ。この歌を批判するぐらいなら、むしろ黙っているアーティストの方に向けたらどうか。

そしてこのメッセージを受け止める側としてはもちろん、単純に被害者目線からの反原発に繋げて終わらせてよいものではない。情報の非対称性があるとはいえ、なぜ騙されてきてしまったのか、あるいは問題があるかも知れないものに目をつぶってきたのかという点に対する自省も必要なのはもちろんのことだ。国民が「何かがしたいこの気持ち」を持ち続け行動に移すことができなければ、この歌が世に出た意味もないだろう。